2026年6月7日日曜日

あったら国宝級の三味線

あったら国宝級の三味線

もしもこの世に、
あったら国宝級だと思える三味線があるなら、
それはきっと、
ただ音を出すための道具ではないと思います。

桐の胴は長い年月を吸い込んだように深く、
光を受けるたびに、
木目が静かに浮かび上がる。

棹は黒く磨かれていて、
派手な飾りはないのに、
近づくだけで背筋が少し伸びるような気配がある。

それを前にすると、
誰もすぐには触れられない。

弾けば音が鳴る。

そんな簡単なものではなく、
そこに宿っている時間まで、
一緒に鳴ってしまいそうだからです。

撥をそっと当てると、
一音目が部屋の奥へ沈んでいく。

高く澄んだ音ではなく、
どこか古い記憶の底から、
ゆっくり立ちのぼるような音。

祭りの夜。

雪の降る宿場町。

人のいなくなった座敷。

昔の誰かが笑って、
昔の誰かが泣いて、
それでも時代だけが流れていった。

そんなものまで、
三本の糸の中に閉じ込められているような気がします。

もしこの三味線が博物館に置かれていたら、
きっとガラスケースの中で、
静かに照明を受けているでしょう。

でも本当は、
飾られるために生まれたものではない。

誰かの手に持たれ、
誰かの呼吸と一緒に震え、
畳の上で、
夜の空気を少しだけ揺らすためにある。

それでも、
あまりに美しすぎるものは、
人のものではなくなっていくのかもしれません。

名人が弾けば、
音は芸になる。

けれど、
この三味線が鳴らす音は、
芸だけでは終わらない気がします。

その音を聞いた人は、
自分が忘れていた景色を思い出す。

子どものころに見た夕暮れ。

遠くから聞こえた祭り囃子。

もう会えない人の声。

そういうものが、
音のすき間から、
ふっと帰ってくる。

国宝級というのは、
ただ高価なもののことではないと思います。

きれいだから、
珍しいから、
古いから、
それだけでもない。

人が生きた時間を受け止めて、
それでもまだ静かに残っているもの。

誰かが大事にして、
誰かが次へ渡したくなるもの。

そんな存在だからこそ、
国宝級と呼びたくなるのだと思います。

あったら国宝級の三味線。

それはきっと、
音を鳴らすたびに、
日本の夜が少しだけ深くなるような三味線です。

そして最後の一音が消えたあと、
部屋には静けさだけが残る。

でもその静けさの中に、
まだ音が生きている。

そんな三味線がもし本当にあるなら、
一度でいいから、
その音を聞いてみたいです。


ここまで読んでくれて、ありがとうございます

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